
柳原良平主義 ~RyoheIZM~04

柳原良平主義 ~RyoheIZM~03
Jul 20, 2023

魅力という名の普遍性
線画の味わい
素朴な線画が、語り始める
船の絵にある普遍性とは?
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは?
これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
というか、そう仮定しないと話が進まない。そんなわけで今回は、柳原作品で圧倒的な比重を占める「船の絵」について、同様に普遍性があると仮定して、それを検証していく。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。
『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、それぞれ絶妙に表情があり、しかも服装が凝っていて、コミカルながら独特の存在感を放っている。
子供の脳に、印象を刻む
帝京大学名誉教授の岡部昌幸氏は、幼少のころこの本を読んで言い知れない不気味さに包まれたと語っている。それだけインパクトがあったということだ。「うん、パッと見たときの感覚なんでしょうね。私が子供だったときの感覚ですから、なぜそう思ったのかわかりません。
まあ単純に、ほのぼのとした話でもなかったですしね」アンクルトリスとおまわりさんとの「顔以外」の大きな差異は、首の有無だ。つまりアンクルトリスには首がないが、おまわりさんには首がある。といっても、おまわりさんの衣装のせいで首があるように見えるだけだが。
シンプルさに潜む、豊かな表情
たとえばこの作品の場合
シンプルなのに表情があるというのは、柳原良平が描く人物画のひとつの特徴だ。よく見るとドヤ顔やビビリ顔など、それぞれの絵から喜怒哀楽が伝わってくる(もちろん、ストーリーを読みながら絵を見るからであるが)。そしてそれに対比するように、三人の助手であるボッツフォード少年の変わらぬにこやかさは、したたかな冷静さ(=優秀さ)を表現している。
そういう意味では、登場人物のキャラクターがわかりやすく設定されている物語であり、それをきっちり読み取って、さりげなくビジュアルに落とし込んでいる柳原の手腕は、やはりさすがだ。
昨今は悪役を除き、登場人物が美男美女ばかり(髪型や服を見なければ誰が誰なのかわからないものも)というマンガが頻繁に見られるが、柳原良平の描く人物たちは真逆で、単純にキラキラな美男美女は出てこない。そしてみんなが違う。そこがいい。童話(子ども向け)でありながら、大人も引き込まれるフックを持っているのは、船の絵と一緒だ。
今回のメインビジュアルを見ながら読んでいただけると幸いだ。これは『しょうぼうてい しゅつどうせよ』(福音館書店)という絵本の中のひとコマだ。船同士の衝突事故が発生し、救助に向かうさまざまな船の様子が(事故の話なのに不適切な表現なのは承知の上で)「生き生きと」描かれている。
絵の右端には、衝突した黒い大型船と小型貨物船がいる。中央に描かれた水中翼船は、両舷に付けられた水中翼をあらわにして現場に急行中だ。下には左側に事故で海に投げ出された子供と、それを救助しようと手を伸ばす小舟上の大人、そこに左から救助艇が駆けつける。
それぞれの船を、見ているうちに
船旅で身に付けた、上流のセンス
という構図だが、ここで言いたいのはたとえば、大型船にぶつかっている小型の船が、なぜ貨物船とわかるのか?ということ。それはクレーンを搭載しており、ロープをかけられた箱型の貨物(の一部)が見えるからだ。
中央の水中翼船も、右下の救助艇も、赤色灯を掲げているから警察の船だとわかる。
左下の木造船は、艀(はしけ)と呼ばれ、港内・湾内で人夫が担いで積み下ろしできる小さめの貨物を運ぶ小型船だ。港内の倉庫から、大型貨物船が停泊する埠頭まで、木箱や段ボールで梱包された小口貨物を運ぶ役割を担っている。
つまりこの艀のオーナーがこのとき偶然、海に落ちた子供を見つけ、助けようとしてるところではないか?と、そこまで想像が及ぶと、よし、がんばれ、艀のオヤジ!と応援したくなってくるから困ったものだ(実はぜんぜん困らない)。
そして水中翼船の「水中翼」がほとんど露出するほど船体が持ち上がってるということは、相当なスピードだなあとか、右下の救助艇は、子供を助けようと風を切って走ってるのがわかるよう白ペンで横線が入っており(絵本の本文にこの船が「ジェット推進の救助艇」とある)、うーん、頼もしいなあとか、ワクワク感がじわじわと広がってくる。
大の大人が、子供より
と、パッと見ると気づかないのに、見ているうちにあれやこれやと気づき出す。実際に貨物船に設置されたクレーンの形状や警察船の赤色灯の取り付け位置など、本物を知って描いていることが、調べてみるとわかる。そこでようやく、この絵は大人が見ても納得のいくクオリティの、いわゆる「子供騙し」の絵ではないことがわかる。
というか知識のある大人こそ、リアルに感じ取れる作品であることが理解できる。それぞれの船の種類はもちろん、この状況(衝突事故)でどの船がどんな目的を持ってここにいる(描かれている)のかがわかるからだ。
もちろん今なら、大型貨物はコンテナとなり、荷役が港に設置されたガントリークレーンでで行われるから、小型貨物船の出番はない。とはいえ自力で荷役作業ができるこうした貨物船は、クレーン設備のない港では大活躍しているし、艀は艀で、貨物船が通行できないほど水深の浅い河川や運河では、必須の船だ。この作品は1964年に刊行された絵本の一コマだが、だからいま見ても古さを感じさせない、つまり時代を超えている。
ある日、自分の子供のためにこの絵本を買ってきて読んでみたら、自分の方がハマってしまった親、といった展開も、可能性としては十分にある。もしかしたら海上保安官が、自分のしている仕事を自分の子供に教える目的で購入したかもしれない。「パパ(あるいはママ)はこの船に乗ってるんだよ」などと言いながら。
結論。普遍性の正体は?
色彩感覚や作品のタッチ、デフォルメ、各種技法などについては別の回に書くつもりだが、今回言いたいのは柳原の作品は時代を超え、幼児から大人まで、どんな年齢層にも訴えかけるフック(=魅力)を持っている作品だということ。つまり、それが冒頭で書いた「普遍性」の正体ではないか、ということだ。
それは、サザンやユーミンの曲が、時代を超えて老若男女に受け入れられているのと同じこと。だから柳原良平が描く船は、いつまでも見飽きない。(以下次号)
そして特筆すべきなのが、服を描く柳原のセンス。平和であるがためヒマを持て余しているおまわりさんが、制服をおしゃれにデザイン・新調することに生きがいを見出しているという設定に、まさにぴったりの服装だ。彼らのお古を着ているボッツフォード少年の制服も、肩章などを見比べるとなるほど、という違いがある。三人の制服が装飾過多になっていくところも面白い。このあたりは、やはり1ドル360円の時代から世界中を船で巡る旅をして、欧米人と交わってきた経験がものを言う。
1960年代、瀬戸内海を周遊する船ではステテコにアッパッパ(質素なサンドレス)、サンダル履きで甲板を歩き回っていた平均的な日本人。それに対して、タキシードに蝶ネクタイでディナーを食べながら、同じテーブルを囲む欧米人にワインを振る舞っていたのだ柳原良平だ。これは圧倒的に経験値が違う。自然に身についたそうしたセンスが描かせる絵も、やはり常人では届かないレベルのものになっても不思議ではない。
こんな船があったら、乗ってみたい!
そして圧巻はやはり船の絵。特に最後に登場する恐竜型の、あり得ない船(の断面図)を描いているのだが、ちゃんと動力室も舵もあり、細部に妥協がない。まさに「美は細部に宿る」を地でいくがごとしだ。本文で語られる内容にぴったりでありながら、きちんと航海できそうな船として成立させる、柳原のクリエイティビティには心底驚かされる。
1938年にアメリカで出版された童話だから、柳原は当然ストーリーを読んで描いたたわけだが、どちらかと言うと、著者が、この絵を見て童話を書いたのでは?と思えてくる。それほど内容と絵とがぴったりだ。
著者ウィリアム・ペン・デュボアの童話は、たとえ夢物語であっても科学的な合理性をもとに、実現できそうに書かれているところに定評があると聞く。つまり空想であっても、それを裏付ける知識を持ったうえで書かれた作品が多いということで、おそらくこの作品もそのひとつだろう。
船にしろファッションにしろ、作家がそうした知識を動員して登場させた架空の乗り物や服装を視覚化するには、イラストレーターの想像力にも、それだけの知識や教養の裏打ちがないと、役不足で終わってしまう。しかしそこは、さすが柳原良平で、さりげないながら、なるほどと思わせるようなものに仕上げている。そこに並々ならぬ教養を感じさせる。
自分がこの本の編集者だったら、この絵を見て「すごい!」と狂喜乱舞したに違いない。ただ柳原本人としてはきっと、船の絵だとつい本気が出してしまうのだろう(他の絵が本気で描かれてないという意味では、もちろんないので誤解はしないで欲しい)。
元々この本の著者ウィリアム・ペン・デュボアは画家でもある。最初に出版されたものは、ストーリーも書いたが表紙も自分で描いているようだ。柳原の絵に比べて数段複雑、というか写実的なタッチで描かれている。
しかし(こう言っては著者のデュボアに失礼だが)柳原によるモノクロの線画の方が、何倍も味わいがあると感じてしまう。この本を、故デュボアに見せて、驚きながら喜ぶデュボアの顔を見てみたかった、などと妄想するのは、私だけだろうか。(以下次号)

アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
参考文献
・『しょうぼうていしゅつどうせよ』(福音館書店)
ご協力いただいた方
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。 参考文献
参考文献
・『三人のおまわりさん』著:ウィリアム・ペン・デュボア(学習研究社)
・『船旅絵日記』(徳間文庫)